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以前、私が書いたブログ「生と死」を読んで、2019年11月18日午後9時21分付けで「有難うございます」さんからコメントをいただきました。
なぜか毎回、投稿名を変えるかたです。
長いコメントでしたので、こちらにてご紹介させていただきます。

毎日に 生死を意識します
朝起きた時が 生であり、夜眠りにつく時が 死です
明日目覚める保証など どこにもありません
呼吸も 心臓の鼓動も私たちの意思で 行われていません
もしも、呼吸も 心臓の鼓動も 自分の意思で行われていたなら
人間の死など 無くなります
私たちの意思に関係なく死は 必ず 訪れます

神様という陽のエネルギーは 常に私たちの 呼吸や心臓の鼓動など
体内を調整しています。これこそが 真の神業です
呼吸も 心臓の鼓動も 自分の意思で行われていないことを知ると
私たちは 生きているのではなく生かされている意味を 深く知ります
生かされているならば 我が身に起こる事柄の全てが
魂の修行であることを 理解します
障りからは 逃げてはいけないことを 理解します
辛い障りは 導きであると 感謝出来ます
障りに不満を思うなど 傲慢であると理解します
障りは 魂の修行の為に用意されたプログラムであると 感謝出来ます
よって 必ず乗り越えられるものと理解します
なかなか乗り越えられないのは
我が身の錆を 落とせていないからであると 我が身の錆に 目を向けていきます
苦しみが長引くのは 我欲 自我の強さだと 理解します
我欲 自我を手放せば、次の高いステージに上がることを理解します
高いステージでは 苦しみが減ることを理解します
小さな悩みが 全て消えます
小さな悩みなど 自分で解決していけるからです
しかし 次第に 大きな障りに変わり それが更に 魂を磨いていくことを楽しみに思います
愛を与えない者に愛は与えられないことを知り
与えないことの 怖さを知ります
この世の全てが 自分の修行であることを正しく 理解します
よって 不平不満の心はありません
与えず 見返りを求める心が 間違いであると理解します
見返りが来ないのは与えていないからだと 理解します
とらわれの無い心が いかに自由で 楽しく
望むままを 神様は人間に与えて下さるかを知っていきます
人生とは本来 とても 楽しいものであるはずなのです。

山中聡和は私と同じ考えを持っているので、文章で上手に表現できる山中聡和が代わりに答えます。

「呼吸も 心臓の鼓動も私たちの意思で 行われていません
もしも、呼吸も 心臓の鼓動も 自分の意思で行われていたなら
人間の死など 無くなります
私たちの意思に関係なく死は 必ず 訪れます」
「自分の意思で行う」=「死なないようにできる」という意味でしょうか。
自分の意思で行うならば失敗はないと断言しているようにみえます。

「神様という陽のエネルギーは 常に私たちの 呼吸や心臓の鼓動など
体内を調整しています。これこそが 真の神業です」
神が陽のエネルギーだと何でお知りになったのでしょうか。
仮に神の御業であったとして、なぜペースメーカーがないと命を落とすかたがいらっしゃるのでしょうか。

「呼吸も 心臓の鼓動も 自分の意思で行われていないことを知ると
私たちは 生きているのではなく生かされている意味を 深く知ります」
無意識に行われている呼吸や心臓の鼓動も、自律神経が乱れると過呼吸になったり、不整脈になったりします。
それを考えると、神というよりは「潜在意識」あるいは「自我」といえませんか。

「生かされているならば 我が身に起こる事柄の全てが
魂の修行であることを 理解します」
魂の修行とは、何を目指しての修行という意味ですか?

「障りからは 逃げてはいけないことを 理解します
辛い障りは 導きであると 感謝出来ます
障りに不満を思うなど 傲慢であると理解します
障りは 魂の修行の為に用意されたプログラムであると 感謝出来ます」
だれが用意したプログラムだとお考えですか?

「よって 必ず乗り越えられるものと理解します
なかなか乗り越えられないのは
我が身の錆を 落とせていないからであると 我が身の錆に 目を向けていきます
苦しみが長引くのは 我欲 自我の強さだと 理解します」
絶対に乗り越えられないものも存在しますが、それはなぜだと思いますか?

「我欲 自我を手放せば、次の高いステージに上がることを理解します
高いステージでは 苦しみが減ることを理解します
小さな悩みが 全て消えます
小さな悩みなど 自分で解決していけるからです
しかし 次第に 大きな障りに変わり それが更に 魂を磨いていくことを楽しみに思います」
磨かれた魂と、磨かれていない魂に、どんな違いがあるのでしょうか。

「愛を与えない者に愛は与えられないことを知り
与えないことの 怖さを知ります」
愛を与えられないことで苦しむ人間が大前提になっていますが、愛を与えられなくても平気な人間は存在しないということですか? さとると愛を求めません。

「この世の全てが 自分の修行であることを正しく 理解します
よって 不平不満の心はありません
与えず 見返りを求める心が 間違いであると理解します」
不平不満がなく、見返りを求めない心、それがさとりですよね。さとると愛を求めません。それをあなたは知っているということですよね。

「見返りが来ないのは与えていないからだと 理解します
とらわれの無い心が いかに自由で 楽しく
望むままを 神様は人間に与えて下さるかを知っていきます
人生とは本来 とても 楽しいものであるはずなのです。」
見返りが来ないのは与えていないからだとおっしゃっている時点で、見返りを求めていませんか。
仮に求めていなくても、さとっていれば見返りが来なくても平気ではありませんか。
さらに、望むままを神様が人間に与えて下さるというのは、さとっていない人の視点ではありませんか。
魂を磨けば、苦しみが減り、人生が楽しいものであると知るということは、魂を磨かなければ、苦しみが当たり前で、人生は苦しみに耐えながら魂を磨かなければならないことになります。それは人生が楽しいことにはならないのではありませんか?

ちなみに、巻山紗依先生と違うお考えのようですので、ご自身のお考えはご自身のブログなどでお書きになられてはいかがでしょうか。なぜ、自分以外の人のブログのコメント欄に、ご自身のお考えを披露なさるのか、疑問に思います。
コメント欄とは、ブログ主の記事について、応援したり、共感したり、読者の誤解を避けるために記事と関係する新情報(観光情報など)をブログ主に教えたりするものです。
ブログ主にコメント主が異論を披露する場ではありません。同じ意見でも披露する場ではありません。
ブログのマナーをご理解いただけることを切に願います。(山中聡和)

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